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佐伯市に残る言い伝えや物語などの中から、特徴的なものを拾ってみました。

「佐伯の殿様、浦でもつ」

  江戸の時代が始まる直前の慶長6年、日田地方を領地としていた毛利高政公が佐伯2万石の藩主としてやってきました。佐伯藩領の漁村は、農民も少なく、田畑も荒れていたので、開墾が奨励されていましたが、高政公は山焼きをしてはいけないと、特別に制限するお触書を出しました。そのわけは、佐伯藩は浦々の漁などで支えられていたため、山焼きで樹木の影が海にうつらなくなると、いわしが海岸に寄りつかなくなり、漁が細る心配があったからです。「魚つき林」といって、漁業が大事にされていたあかしです。

「豊後土工(どっこ)を生んだ上浦」

  農地が少なく、漁業以外に大きな収入源のなかった上浦の人々は、土木工事などの出稼ぎで生計を補っていました。トンネル工事の技術を身につけ、親方として現場を仕切り、後輩も育成し、日豊本線の開通した大正の頃には、全国の工事現場で「豊後土工」は頼りにされるようになります。危険を伴うこの仕事は、抗夫の団結が必要とされ、血縁や地縁による結びつきの強かった上浦の風土が生んだと言え、今も多くの人が全国各地で活躍しています。

「すみつけ祭」

  木浦鉱山が繁栄を極めたころ、この「すみつけ祭」が始まりました。歴史は、慶長時代にさかのぼるといわれています。この祭の特徴は「ひとつ祝わせちょくれ」と言いながら、誰かれ構わず顔にすみを塗りつけるところにあります。「昔、木浦鉱山で落盤事故があったとき、一人だけ助かった女性の顔がすみで真っ黒だったことから、常に危険と隣り合わせの鉱山で、安全を祈ってすみを顔に塗りつけるようになった」とか「銀鉱石がすみのように黒いことから、銀が多く産出されることを願って始まった」など、さまざまな言い伝えが残されています。この祭りに似たものは全国に数カ所しかないそうですが、いずれも一様に古い歴史を有する銀山だということです。今は、隔年の2月に開催されています。

「宇目の唄げんか」

  宇目の唄げんかは、鉱山がまだ賑わっていたころ、子守奉公に出された女児たちが歌った唄だとされています。なかなか泣きやまない子どもを幼い身体で負いながら、奉公のつらさを紛らわせようと子守唄を歌ったのが始まりといわれ、ユーモラスな歌詞の中にも哀愁を帯びた唄は、聴く人の心を捉えて離しません。今では大分県を代表する民謡として、全国にその名を知られています。

『「吉祥寺物語」かくされた黄金をとり出す』

  鶴見、沖松浦の吉祥寺の辺りは、昔は森のようで辺りにはお墓が立ち並ぶといった、寂しく怖い感じのする所でした。いつからか、夜になると「火の玉」「ぞうの首」(武士の像の首では、といわれています)が現れるという噂が流れ、昼でさえ近づく人はなくなりました。それからかなりたった頃、周防(今の山口県)から室積吉右衛門という商人が佐伯からの帰り、この松浦でも塩を売ろうと上陸しました。やがて夕方になり、塩を買ってくれた家の縁先で船のりたちと一緒に楽しく話をしながら食事をしました。家の人も話に加わりその中で火の玉の話をしたところ、「おもしろい。何物のしわざか、私が確かめてやる。」と吉右衛門さんが言い出しました。家の人は何度も止めましたが、吉右衛門さんは船のりたちを連れ、森へと行ってしまったのです。最初は少しも怖いと思わなかった吉右衛門さんも、森に近づくにつれ、気味が悪くなりましたが、男が一度行くと言った以上、後には引けません。勇気を出して森へ着くと「ぞうの首」たちがいきなり吉右衛門さんめがけて飛びかかってきました。その時、吉右衛門さんが「化物め、吉右衛門が生け捕りにしてやる!」と叫ぶと、あまりの声の勇ましさに「ぞうの首」たちはたちまち消えてしまいました。 同時にドサッという、何かが落ちたような大きな音がしました。吉右衛門さんたちがその方へ行くと、森の中に祠があるのが見えました。草を分けて入ってみると、武士の着る鎧・兜を初め金・銀製の道具がキラキラと山積みになっています。吉右衛門さんたちは大喜びで宝物を舟に積んで帰りました。吉右衛門さんはこんな幸運をつかめたせめてものお礼として、吉祥寺の境内に、残っていた塩をしきつめました。この上を土で覆いましたが、以来吉祥寺の境内には草一つ生えなくなりました。国へ帰ってからも吉右衛門さんは気が済まず、立派な石灯籠を2つ造り、周防から松浦の吉祥寺へ贈りました。今でも吉祥寺にはこの石灯籠が残っています。

「鮪浦の大蛇と漁師の話」

 鶴見の鮪浦に漁と商売の神・恵美須さんを祭っているお堂があります。この恵美須堂の下にある1mほどの幅と「きれのはな」という所の2つの道には、なぜか1本の草も生えていません。そのわけは、そこが胴のまわりが2m・長さが30mもある大蛇の通り道であり、その毒気にあてられたからといわれ、こんな話が残っています。見た人の話によると、この大蛇は海をかきわけて鮪浦へ泳いでくるといいます。漁をしている時にやって来るものだから、漁師たちは魚に逃げられてとても困っていましたが、何しろ大きい蛇だけにうかつには手を出せず、大蛇が通りすぎるのを怖さをこらえて待つほかはありませんでした。こうしてやって来た大蛇は鮪浦に上がり、「きれのはな」を通って恵美須堂の前まで来ます。あまり何度も大蛇が来るので、漁師たちはなぜ来るのだろう、何とかならないか、と話し合うのでした。 そのうち、不思議なことに気がつきました。大蛇はお堂の前にやって来て大きなとぐろを巻くのですが、しばらくすると30cmほどの小さな蛇になって、お堂のなかへスーッと入っていくのです。これに気がついた漁師たちは、そのわけをいろいろ考えました。そのうち、1人が「きっと大蛇は恵美須さんのお使いで、このお堂を粗末にすることがあったから恵美須さんは大蛇をつかってこのことを私たちに知らせているんだ。」と言うと、みんななるほど、と深くうなずきました。そして村の人々はみんな集まって、粗末にしたことを謝りながらたくさんお供えものをし、お祭りをしました。それからというもの、大蛇が鮪浦に現れることはなくなりましたが、今も草1本生えない道にその名残りをとどめています。

「醜女(しこめ)菊姫」

 今からおよそ200年前、佐伯藩の家老に、18になる菊姫という娘がいた。町なかを通る菊姫を見かけると、若侍たちは、「あれが、噂に聞く菊姫か。美しいのう」、「ああいう姫を嫁にしたいものじゃ」と、誰もが嫁に欲しがるほど美しい娘であった。家老夫婦も、「美しい菊姫に良い婿が早く見つかればよいが」と願っていた。ところがどうしたことか、あるとき、菊姫の美しい顔に吹き出物が出始めた。初めは一つだけだったのが、だんだんと黒く広がっていった。やがて右の頬は吹き出物でいっぱいになり、見るも痛ましい顔になってしまった。菊姫は部屋に閉じこもったきり、外に出ようともしなくなった。家老夫婦は、娘の美しさを取り戻そうと、あちこちの医者を訪ねて回ったが、さっぱり効き目はなかった。そのうち、菊姫はだんだんとやせ衰えていった。そんな日が続いたのち、菊姫の部屋から、お経を読む声が聞こえてくるようになった。ある朝のこと、一心にお経を読み上げている菊姫の目の前を、ひとすじの光がさっと横切ったかと思うと、重々しい声が響いた。「おまえの病気は、大日寺の弁財天にお祈りすれば治るであろう。」菊姫は、このお告げを信じた。さっそく大日寺に行くと、竹やぶに囲まれた境内は、人気もなく静まり返っていた。本堂の裏の弁財天を祀ってあるお堂に入ると、菊姫は一心に祈り始めた。「弁財天様、私を憐れと思し召して、どうか元どおりの顔にしてくださいませ」この日から、菊姫は21日間の願掛けに入った。雨の日も風の日も、菊姫は一心に祈り続けた。やがて、21日目の日がやってきた。菊姫は、朝からお告げに望みをかけて祈り続けた。昼が過ぎ、夜になった。うしみつどき(午前2時ごろ)になろうかという頃だ。一本のろうそくだけの薄暗いお堂に、目もくらむような強い光がきらめいた。と思うと、弁財天のうしろから、らんらんと目を輝やかした大蛇が、真っ赤な炎を吐きながら菊姫におどりかかってきた。「ああ、弁財天様、お助けくだされ」逃げる間もなく、菊姫はその場に気絶してしまった。
次の朝、お堂の中に倒れている菊姫を、家来たちが見つけた。不思議なことに、菊姫の顔からは、あの醜い吹き出物が跡かたもなく消えていた。家来たちは、大声で菊姫を揺り起こした。「姫様、あなたは元の美しいお顔におなりですぞ」この話が城中に伝わり、町じゅうに広がると、弁財天のご利益を受けて美しくなりたいと願う娘たちのお参りが、ひきも切らなかったという。この話にちなんで、毎年4月に行われる「さいき春まつり」では、「菊姫行列」という催しがなされ、地元の有志が開催する竹灯物語とあわせて、200年前にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるほどの美しい幻想的なイベントとなっている。

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