佐伯市公式ホームページ Saiki-city official web site
大分県佐伯市ホームページ
トップページへ 市役所の案内へ 暮らしの便利帳へ お知らせへ 観光ガイドへ 市政ガイドへ
ホーム > 佐伯はこんなまち 文字を大きくするには
佐伯はこんなまち
公聴広報課市民の窓係(電話 0972-22-3399)
佐伯はこんなまち
 佐伯市は豊かな海、深い山、清流番匠川などに代表される豊かな自然に恵まれた城下町です。古くから農林水産業が盛んで、佐伯藩の財政を支えました。維新以後、一時期、軍港として発展しましたが、戦後は造船を中心にした鉄工業が盛んです。
地勢
 平成17年3月3日、大分県佐伯市と大分県南海部郡の5町3村が合併して、広大な新「佐伯市」が誕生しました。大分県南東部に位置し、人口82,423人(平成19年4月1日現在)、面積は903.4平方キロメートル、海岸線延長約270km、九州で一番広い面積をもつまちです。ちなみに佐伯市の面積を2.4倍すると、東京都の広さになります。地勢は、九州山地から広がる山間部、一級河川番匠川下流に広がる平野部、リアス式海岸の続く海岸部に大きく分けられます。これら自然の特性は、豊富な森林資源を背景にした林業、温暖な気候を利用した農業、豊後水道の恵みを生かした水産業を、それぞれはぐくんでいます。
                   
※合併前の旧市町村名 佐伯市 上浦町 弥生町 本匠村 宇目町 直川村
                                鶴見町 米水津村 蒲江町
歴史はやわかり
 本匠宇津々地区から2万年前の人骨が出土していて、少なくともこの時期には人がすんでいたことがわかります。縄文時代になると定住化が始まり、弥生時代には農耕が行われるようになったことが、遺跡から出土した石器、土器などからうかがえます。奈良時代には、佐伯地方に海人族(漁民)が住んでいたという記述が豊後風土記に登場し、平安時代になると朝廷の「介」(国の地方長官、国司のこと)が臼杵、津久見、佐伯の一帯を治めるようになりました。このうち、佐伯地方は、介である大神氏一門が所領していて、後の佐伯氏はここの地名を名乗りました。余談ですが、番匠川流域の主な農地は、ほとんどがこの時期に開墾されました。
 さて、佐伯氏は平氏から源氏への政権交代、鎌倉、室町の混乱した時代を、大分市を基盤とする大友氏と盟友関係を結んで乗り越えました。しかし、豊臣秀吉の薩摩攻めを機に藤堂氏の家臣となり、後に藤堂氏ともども伊予(現愛媛県)に移りました。約800年にわたり佐伯を治めた佐伯氏は、この後、藤堂一門につながる名門として、明治時代まで続きました。
 佐伯氏が四国に去った後、毛利氏が佐伯に封ぜられました。この毛利氏は、三本の矢で有名な毛利氏とは違います。もとは尾張の在郷武士で、木下藤吉郎に仕え名をあげた人です。毛利氏の時代は、江戸時代の270年間続きました。佐伯市のシンボル「城山」に鶴谷城が築かれたのもこの時代です。佐伯藩の石高は2万ですが、水産物や木材の運上金のため、藩の財政は石高以上のものがあったようです。なお、佐伯市宇目は、佐伯藩ではなく、岡藩(竹田市)の所領でした。
 明治になると、廃藩置県により佐伯県となり、その後、他の県(日田、府内、臼杵など)と統合して大分県になりました。この頃、佐伯地域は15の区に区分され、現在の区割りの基礎ができました。その後、市町村制がしかれ、合併前の市町村に収束していきます。その間、西南の役の戦場となり、日清・日露の両戦争では、華々しい勝報の一方で少なからぬ戦死者を出しました。第2次世界大戦にも多くの人が出征し、数多の人が戦死しました。大戦中、佐伯は軍都、軍港として栄え、連合艦隊が真珠湾へ向かうため単冠湾へ向け出港したのは、この地佐伯からでした。戦争末期には空襲で多くの市民が死亡するという悲劇にも見舞われました。戦後は、県下で最も早く工業都市として発展し、高度経済成長、オイルショックを経て現在に至っています。
農林水産業
 当市は海、山、里が揃う自然の豊かな地域だけに、農林水産業が盛んです。
 このうち、農業の産出額は約64億円、耕作面積は約2,290haです。主要農産物は、米、イチゴ、ナス、温州ミカン、ポンカンなどの野菜・果樹とキク、スイートピーなどの花き、畜産は豚、鶏、乳・肉用牛、それに茶などです。このうち、米は「レンゲ」、「唄げんか」、「ほたる」などのブランド化が図られ、施設園芸ではアスパラガスやホオズキも栽培されています。茶は独特の香りを持つ本匠の「釜炒り茶」が有名です。
 林業も盛んです。市の面積の9割近くが森林で、このうち人工林が5割強を占めます。天然林はほとんどがカシ、シイの広葉樹、人工林はスギが8割を占め、残りはほとんどヒノキです。木材の他、タケノコ、シイタケも多く産しますが、木炭の生産は激減しています。なお、生産基盤である林道の総延長は410kmです。
 水産業の生産高は184億円です。この数字は当市一次産業生産高269億円の7割近くを、また県内の水産業生産高の5割を占めることから、当市は県内随一の水産都市といえます。生産高の内訳は、漁船漁業が54億円、養殖業が130億円、特にブリ類やヒラメを中心にした養殖業は全県生産高の8割強を占めます。漁船漁業も盛んで、まき網、底曳網、船曳網、一本釣り、潜水等がアジ、サバ、クルマエビ、ヒラメ、ブリ、タイ、アワビ、サザエなどを水揚します。このうち青物は丸干し、開きなど水産加工品になり、イワシ類は特産の「佐伯イリコ」として珍重されています。(数字はいずれも平成16年大分県農林水産統計から)

商工業
(商業の現状)
 大規模店舗の郊外への相次ぐ出店、郊外への住宅建設で、市中心部の商店街は、廃業、休業、規模縮小による閉店が目立つようになりました。旧南海部郡地域も、市町村合併に伴い過疎化が加速するおそれがあり、小売業への影響が少なからず懸念されています。これらに加え、近年、大分市を中心に郊外型の大型商業施設が開設され、地域商業者の置かれた状況は厳しく、高速道路の乗り入れも購買力の流出に拍車をかけるものとの不安を抱いています。

事業所数 就業者数 年間商品販売額(万円)
平成14年 1,411 7,009 12,793,002
平成16年 1,364 7,120 13,329,970
増減率(%) △3.3 1.6 4.2
                        (資料:商業統計調査)
                     
(工業の現状)
 戦後、海軍跡地へ企業誘致を進め、パルプ、セメント、合板、造船等が立地し、港湾を利用した工業都市として発展してきました。中でも造船業は一時期の構造不況を脱し好況を呈していますが、近年、県央、県北などに大規模製造業の進出が相次ぐなか、交通インフラを中心とした社会資本整備の遅れ等により企業誘致は進んでいません。
事業所数 従業者数 製造品出荷額等(万円)
平成17年 198 4,423 7,973,943
平成18年 188 4,560 8,682,886
増減率(%) △5.1 3.1 8.9
                        (資料:工業統計調査)

食のまち
 生鮮魚介類を素材とした食のまちとして、売り出し中です。特に寿司は「世界一・佐伯寿司」と銘打ち、寿司組合が力を入れています。また、市中心部の「うまいもん通り」には各種飲食店がひしめき、佐伯の味を堪能できます。市内には道の駅が3、里の駅が9あり、山海の幸や郷土料理などを食べることができ、特産品販売コーナーも充実しています。新鮮な野菜を始め農林水産物の加工品など、この地域のものを網羅しています。ししラーメン(道の駅宇目)や死海の湯(イスラエルの死海を再現した浴場、道の駅やよい)といったものもあります。近年は、宮崎県の県北地域とタイアップし、イセエビなど海の食材をテーマにした食観光のルートの立ち上げや佐伯市に古くから伝わる郷土料理「佐伯ごまだし」を目玉とした観光客誘致に取り組む活動も始まりました。

佐伯人の気質と有名人
 旧市町村史に、「派手、人情豊かで人がよく親切、明るく陽気であっさりしているが、粘り強さがなく根性にかける」という記述があります。しかし、これは佐伯人をひとくくりにしたときの見方であり、そこは人間、十人十色、多士済々の人物を輩出しています。
(有名人)
 阿南準郎・・・・・・・・広島東洋カープ元監督、現球団本部長
 野村謙二郎・・・・・・広島東洋カープ監督、名球会会員
 川崎憲次郎・・・・・・プロ野球解説者、元プロ野球選手、ヤクルト−中日
 国木田独歩・・・・・・矢野龍渓の紹介で鶴谷学館教師として来佐。一年足らずの滞在でしたが、処女作『源叔父』や『春の鳥』『鹿狩』
              は佐伯が舞台。代表作に『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』
 富永一郎・・・・・・・・マンガ家、代表作はチンコロ姉ちゃんシリーズ
 
 御手洗冨士夫・・・・キヤノン株式会社代表取締役会長、前日本経団連会長(平成18年5月〜平成22年5月)
 村上勇・・・・・・・・・・故人、政治家、元建設・郵政大臣
 矢野龍渓・・・・・・・・明治のジャーナリスト、政治小説『経国美談』は明治のベストセラー
 嘉風雅継・・・・・・・・大相撲幕内力士

 伊達治一郎・・・・・・モントリオール五輪レスリング(フリー74kg級)金メダリスト

教育
 当市には幼稚園が23、小学校が31(分校1を含む)あります。少子化の影響で園児・生徒数は減少傾向にありますが、特に過疎化の進む周辺部は激減し、いくつかは複式学級となっています。佐伯市全体の児童数は3,929人、最も多いのは渡町台小学校(714人)、最も少ないところは大島小学校(3人)です。中学校は14校で、生徒数は合計2,094人です。これらはいずれも市立の学校です。このほかに大分県立佐伯養護学校があります。高等学校は県立の佐伯鶴城高校、佐伯豊南高校、佐伯鶴岡高校と私立の日本文理大学附属高校の4校があり、文武の両面で活躍を見せています。(数字はいずれも平成21年5月1日現在)

方言
 言葉のアクセントは、隣の宮崎県や大分県中部よりも、愛媛や山口のものに近いといわれています。これは江戸期の海運によるつながりの影響でしょうか。次のような方言が使われています。
 ・うんだぁ(私)
 ・うどまかす(慌てる)
 ・枝(手)
 ・おろいい(ずるがしこい)
 ・さじぃ(すばしっこい)
 ・しまとがつかん(手に負えない)
 ・しょわぁねぇ(だいじょうぶだ)
 ・しょわしい(忙しい)
 ・とびごく(徒競走)
 ・よこう(休む)
 ・ぼそ(草やぶ、のろまな人)
 ・びったれ(だらしのない人)

トピックス
 佐伯市に残る言い伝えや物語などの中から、特徴的なものを拾ってみました。

「佐伯の殿様、浦でもつ」
 江戸の時代が始まる直前の慶長6年、日田地方を領地としていた毛利高政公が佐伯2万石の藩主としてやってきました。佐伯藩領の漁村は、農民も少なく、田畑も荒れていたので、開墾が奨励されていましたが、高政公は山焼きをしてはいけないと、特別に制限するお触書を出しました。そのわけは、佐伯藩は浦々の漁などで支えられていたため、山焼きで樹木の影が海にうつらなくなると、いわしが海岸に寄りつかなくなり、漁が細る心配があったからです。「魚つき林」といって、漁業が大事にされていたあかしです。

「豊後土工(どっこ)を生んだ上浦」
 農地が少なく、漁業以外に大きな収入源のなかった上浦の人々は、土木工事などの出稼ぎで生計を補っていました。トンネル工事の技術を身につけ、親方として現場を仕切り、後輩も育成し、日豊本線の開通した大正の頃には、全国の工事現場で「豊後土工」は頼りにされるようになります。危険を伴うこの仕事は、抗夫の団結が必要とされ、血縁や地縁による結びつきの強かった上浦の風土が生んだと言え、今も多くの人が全国各地で活躍しています。

「すみつけ祭」
 木浦鉱山が繁栄を極めたころ、この「すみつけ祭」が始まりました。歴史は、慶長時代にさかのぼるといわれています。この祭の特徴は「ひとつ祝わせちょくれ」と言いながら、誰かれ構わず顔にすみを塗りつけるところにあります。「昔、木浦鉱山で落盤事故があったとき、一人だけ助かった女性の顔がすみで真っ黒だったことから、常に危険と隣り合わせの鉱山で、安全を祈ってすみを顔に塗りつけるようになった」とか「銀鉱石がすみのように黒いことから、銀が多く産出されることを願って始まった」など、さまざまな言い伝えが残されています。この祭りに似たものは全国に数カ所しかないそうですが、いずれも一様に古い歴史を有する銀山だということです。今は、隔年の2月に開催されています。

「宇目の唄げんか」
 宇目の唄げんかは、鉱山がまだ賑わっていたころ、子守奉公に出された女児たちが歌った唄だとされています。なかなか泣きやまない子どもを幼い身体で負いながら、奉公のつらさを紛らわせようと子守唄を歌ったのが始まりといわれ、ユーモラスな歌詞の中にも哀愁を帯びた唄は、聴く人の心を捉えて離しません。今では大分県を代表する民謡として、全国にその名を知られています。

『「吉祥寺物語」かくされた黄金をとり出す』
 鶴見、沖松浦の吉祥寺の辺りは、昔は森のようで辺りにはお墓が立ち並ぶといった、寂しく怖い感じのする所でした。いつからか、夜になると「火の玉」「ぞうの首」(武士の像の首では、といわれています)が現れるという噂が流れ、昼でさえ近づく人はなくなりました。それからかなりたった頃、周防(今の山口県)から室積吉右衛門という商人が佐伯からの帰り、この松浦でも塩を売ろうと上陸しました。やがて夕方になり、塩を買ってくれた家の縁先で船のりたちと一緒に楽しく話をしながら食事をしました。家の人も話に加わりその中で火の玉の話をしたところ、「おもしろい。何物のしわざか、私が確かめてやる。」と吉右衛門さんが言い出しました。家の人は何度も止めましたが、吉右衛門さんは船のりたちを連れ、森へと行ってしまったのです。最初は少しも怖いと思わなかった吉右衛門さんも、森に近づくにつれ、気味が悪くなりましたが、男が一度行くと言った以上、後には引けません。勇気を出して森へ着くと「ぞうの首」たちがいきなり吉右衛門さんめがけて飛びかかってきました。その時、吉右衛門さんが「化物め、吉右衛門が生け捕りにしてやる!」と叫ぶと、あまりの声の勇ましさに「ぞうの首」たちはたちまち消えてしまいました。 同時にドサッという、何かが落ちたような大きな音がしました。吉右衛門さんたちがその方へ行くと、森の中に祠があるのが見えました。草を分けて入ってみると、武士の着る鎧・兜を初め金・銀製の道具がキラキラと山積みになっています。吉右衛門さんたちは大喜びで宝物を舟に積んで帰りました。吉右衛門さんはこんな幸運をつかめたせめてものお礼として、吉祥寺の境内に、残っていた塩をしきつめました。この上を土で覆いましたが、以来吉祥寺の境内には草一つ生えなくなりました。国へ帰ってからも吉右衛門さんは気が済まず、立派な石灯籠を2つ造り、周防から松浦の吉祥寺へ贈りました。今でも吉祥寺にはこの石灯籠が残っています。

「鮪浦の大蛇と漁師の話」
 鶴見の鮪浦に漁と商売の神・恵美須さんを祭っているお堂があります。この恵美須堂の下にある1mほどの幅と「きれのはな」という所の2つの道には、なぜか1本の草も生えていません。そのわけは、そこが胴のまわりが2m・長さが30mもある大蛇の通り道であり、その毒気にあてられたからといわれ、こんな話が残っています。見た人の話によると、この大蛇は海をかきわけて鮪浦へ泳いでくるといいます。漁をしている時にやって来るものだから、漁師たちは魚に逃げられてとても困っていましたが、何しろ大きい蛇だけにうかつには手を出せず、大蛇が通りすぎるのを怖さをこらえて待つほかはありませんでした。こうしてやって来た大蛇は鮪浦に上がり、「きれのはな」を通って恵美須堂の前まで来ます。あまり何度も大蛇が来るので、漁師たちはなぜ来るのだろう、何とかならないか、と話し合うのでした。 そのうち、不思議なことに気がつきました。大蛇はお堂の前にやって来て大きなとぐろを巻くのですが、しばらくすると30cmほどの小さな蛇になって、お堂のなかへスーッと入っていくのです。これに気がついた漁師たちは、そのわけをいろいろ考えました。そのうち、1人が「きっと大蛇は恵美須さんのお使いで、このお堂を粗末にすることがあったから恵美須さんは大蛇をつかってこのことを私たちに知らせているんだ。」と言うと、みんななるほど、と深くうなずきました。そして村の人々はみんな集まって、粗末にしたことを謝りながらたくさんお供えものをし、お祭りをしました。それからというもの、大蛇が鮪浦に現れることはなくなりましたが、今も草1本生えない道にその名残りをとどめています。

「天気予報」
 天気予報のない昔は、諺によって天気を判断していました。この地域に残る天気予報の諺には次のようなものがあります。
晴れ編
 「秋の夕焼け鎌をとげ」
   秋夕焼けは天気だ、稲刈りの用意をせよと
雨編
 「春の夕焼けはミノを着れ」
   春の夕焼けは必ず雨になる
 「天にイラ(ウロコ)雲三日より内の雨」
   天高くウロコ雲ができて風はない。近いうち、雨となる。
 「月に雨傘、日に日傘なし」
   月の夜に輪ができ、日中、日光に輪ができる現象が起こると雨が近い
 「冬の雨下一日は風じゃ」
   冬雨が降りても一日は風がふかず、次の日より風となる
風編
 「春の雨上がりは虎の角を吹き落とす」
   春の雨が上がったら、必ず大風が吹くこと
 「八十八夜のトンボ風」
   八十八夜前後は必ず激しい北風が吹く
 「四月海に棚をかけ」
    4月はおだやかで、船に棚を作っても吹き飛ぶ事はないと
 「秋鹿鳴いて風吹かず」
    秋の夜長に鹿が鳴く、風は吹かないと

名勝
豊後二見ケ浦
 佐伯湾に浮かぶ高さ17mの雄岩と10mの雌岩の間に、長さ65メートル、直径75センチ、総重量2トンの巨大しめ縄を張っています。この大きさは、ギネスブックにも掲載されました。張り替えは、年1回、12月に行い、上浦地区の風物詩となっています。
霊峰尺間山
 弥生地区にある海抜645mの険しい山は、天正元年(1573年)に開山した修験道の霊場です。今は、法螺貝を手に籠もる修験者の姿は見られませんが、山頂の尺間神社の絵馬火焚きなどの儀式には、往事の雰囲気があります。頂上直下の400段の石段を登り切ると、佐伯湾の絶景が広がります。
小半鍾乳洞
 大正11年に指定された本匠地区にある国の天然記念物です。洞の延長は700m、無数の鍾乳石や石筍、石柱の創り出す幻想的な雰囲気には、目を見張るものがあります。
清流番匠川
 化石の宝庫佩楯山(はいたてやま)に源を発する、九州有数の清流です。流域の田畑はもとより、工業用水としても利用され、8万市民の喉を潤し、産するシロウオ、ウナギ、アユ、モクズガニは絶品です。
傾山
 祖母傾山国定公園の主峰の一つ、標高1,602mの急峻な山で、多くのクライマーがこの山を目指します。山裾は清流藤河内渓谷を潤す手付かずの原生林が息づいています。
鉱泉
 温泉法では25度未満のものを冷鉱泉と呼びますが、直川地区に湧くものもこの冷鉱泉です。炭酸水素イオンを多く含み、入浴施設のほかレストランも完備しています。常連客の多いのが特徴です。
鶴御崎
 ♪豊後鶴御崎男の港♪と歌われた九州最東端の岬です。大島との間にある元ノ間海峡は、音戸ノ瀬戸や関門海峡を凌ぐほどの流れがあり、迫力満点です。岬には灯台があり、豊後水道を一望できます。
空の地蔵
 豊後水道を見下ろす山の尾根に、地蔵尊があります。江戸時代に難破した人の霊を弔うためにまつられたもので、今は海上安全、豊漁祈願、無病息災、合格祈願に利益があるといわれています。眺望絶佳のこの地はドライブコースとして親しまれています。
元猿、波当津の海岸
 元猿海岸はウミガメが産卵に来ることもある、日本の渚百選に指定された砂浜です。波当津海岸は日本の白砂青松百選に認定された遠浅の美しい海岸です。夏は、いずれも海水浴客でにぎわいます。

その他
参考・引用文献
 ・大分県農林水産統計年報
 ・旧市町村要覧
 ・観光マップ等から


【 資 料 編 】←クリック

大分県佐伯市公式ホームページ Saiki-city official web site
Copyright(C) City of Saiki,All rights reserved.