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佐伯はこんなまち
佐伯はこんなまち
 平成17年3月3日、大分県佐伯市と大分県南海部郡の5町3村が合併して、広大な新「佐伯市」が誕生しました。平成27年3月で合併10周年を迎えました。
 佐伯市は、大分県南東部に位置し、人口72,203人(平成27年国勢調査速報値)、面積は903.11平方キロメートル、海岸線延長約270km、九州で一番広い面積をもつまちです。ちなみに佐伯市の面積を2.4倍すると、東京都の広さになります。地勢は、九州山地から広がる山間部、一級河川番匠川下流に広がる平野部、リアス式海岸の続く海岸部に大きく分けられます。これら自然の特性は、豊富な森林資源を背景にした林業、温暖な気候を利用した農業、豊後水道の恵みを生かした水産業を、それぞれはぐくんでいます。
                   

歴史はやわかり
●原始・古代の佐伯

 佐伯(さいき)にいつから人が住み始めたのかはわかっていません。しかし、森の木(もりのき)遺跡の 調査によって、今からおよそ9千年前の縄文時代早期(じょうもんじだいそうき)には、人々が定住していたことがわかっています。縄文の集落に住む人々は、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)に住み、肉や 魚などを蒸し焼きにして食べ、保存のため燻製(くんせい)にしていました。
 3世紀ごろ、奈良盆地を中心とする地域に大和(やまと)王権が誕生し、各地に巨大な古墳(こふん)が造られるようになります。佐伯でも、海や川を見下ろす丘陵に、宝剣山(ほうけんざん)古墳や樫野(かしの)古墳などが築かれました。これらはこの地域を治める地方首長を埋葬した墓と考えられています。
 8世紀になると現在の奈良や京都に都が置かれ、地方には、国・郡・里(郷)が置かれました。『豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)』によると、佐伯は、海部(あまべ)郡の「穂門(ほと)郷」であったとされています。市内の汐月(しおつき)遺跡からは、「吉」という文字が墨で書かれた土器が出土し、「佐伯院」という古代の役所があったのではないかともいわれています。

●中世の佐伯

 中世の佐伯には佐伯荘(さいきのしょう)と呼ばれる荘園があり、豊後の守護大友氏のもと、地頭として佐伯氏が支配していました。戦国時代に佐伯氏が築いた栂牟礼城(とがむれじょう)は、巨大城郭として知られ、この城を舞台とした栂牟礼合戦は伝説として今に伝えられています。
 佐伯氏は、大友氏の重臣として活躍しますが、文禄2年(1593)に大友氏が改易(かいえき)されたため、 伊予(いよ)の藤堂高虎(とうどうたかとら)に仕えて佐伯の地を去りました。
 市内には佐伯氏にまつわる史跡や寺社、石造物などが残されており、当時の佐伯の姿を今に伝えて います。

●近世の佐伯

 近世の佐伯市域は、佐伯藩と岡(おか)藩(宇目)に分かれていました。 佐伯藩は石高が2万石、その領域は現在の津久見(つくみ)市南部から宇目を除く佐伯市全域でした。 初代藩主毛利高政(もうりたかまさ)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、日田・玖珠(ひた・くす)を治めた戦国大名でしたが、関ヶ原の戦いで石田方(西軍)についたため佐伯に国替えとなります。高政は、番匠川(ばんじょうがわ)河口に佐伯城と城下町を築き、豊後水道に面する浦方(うらかた)と平地の少ない山間部の農村を藩政の基盤としました。以後12代高謙(たかあき)のときに明治維新を迎えるまで佐伯藩の毛利家による支配は存続しました。 一方、大野(おおの)郡に属する宇目郷は、岡藩6万6千石の領地となり、交通の要所として重視され、鉱山開発などが行われました。藩主中川(なかがわ)氏は、初代秀成(ひでなり)から12代久昭(ひさあき)まで江戸時代を通じて岡藩を統治しました。"

●近代の佐伯

 明治4年(1871)の廃藩置県(はいはんちけん)により大分県が誕生しました。 明治10年(1877)に勃発した西南戦争では、宮崎県境の山間部が広範囲に戦場となり、西郷(さいごう)軍の一部は佐伯市街にも侵入しました。宇目・直川(なおかわ)などには現在も多数の台場跡(だいばあと)が残されています。 明治11年(1878)、海部郡は蒲戸﨑を境に南北海部郡に分けられました。明治22年の市町村制の施行により旧佐伯藩領は南海部郡1町23村、宇目は大野郡2村となり、現在の行政区割りの基礎ができました。
 昭和に入ると佐伯湾に面した海岸部に海軍基地ができ、佐伯は軍事都市として発展します。昭和9年(1934)に佐伯海軍航空隊が開隊、昭和15年(1940)には佐伯防備隊ができました。また、昭和16年(1941)には、真珠湾攻撃に向けて、佐伯湾から連合艦隊機動部隊の一部が発進しました。しかし、戦局の悪化した昭和20年に入ると、佐伯もたびたび米軍の空襲を受け、一般市民も犠牲となりました。"

●現代の佐伯

 戦後、旧海軍跡地などの臨海部に工場・造船所が進出、高度経済成長の波にも乗り、県下で最も早く工業都市として発展しました。しかし、2度のオイルショックを経て、その後の経済は低迷します。 平成17(2005)年3月3日、佐伯市と南海部郡の5町3村が合併し、新「佐伯市」が誕生しました。"

 
樫野古墳の箱式石棺
 
 
十三重塔(大分県指定有形文化財)
 
佐伯城跡
 
西南戦争の台場が築かれた黒土峠(宇目)
農林水産業
 佐伯市は海、山、里が揃う自然の豊かな地域だけに、農林水産業が盛んです。主要農産物として、温暖な気候を利用した早期米・安全で安心できる米づくりとして特別栽培米〈減農薬栽培〉が推進・栽培されています。そのほか、イチゴ、ナス、ニラ、温州ミカン、ポンカンなどの野菜・果樹とキク、スイートピーなどの花き、畜産は鶏、肉用牛、それに茶などです。このうち、米は「唄げんか」、「ほたる」などのブランド化が図られ、施設園芸ではアスパラガスやホオズキも栽培されています。茶は独特の香りを持つ本匠の「釜炒り茶」が有名です。また林業も盛んです。市の面積の9割近くが森林で、人工林が5割強を占めます。この人工林の9割をスギが占めています。佐伯市産のスギは、材質、形状とも木材業界で人気が高く、木材市場での価格は九州トップクラスです。広葉樹では、クヌギ、ナラを原木とした乾しシイタケの栽培も盛んです。なお、生産基盤である林道の総延長は438kmです。
 また水産業の生産量は県内の水産業生産量の6.5割を占めており、当市は県内随一の水産都市と言えます。特にブリ類やヒラメを中心にした養殖業は全県生産量の約8割を占めます。漁船漁業も盛んで、まき網、底曳網、船曳網、一本釣り、また潜水などによりアジ、サバ、クルマエビ、ヒラメ、ブリ、タイ、アワビ、サザエなどを水揚げします。このうち青物は丸干し、開きなど水産加工品になり、イワシ類は特産の「佐伯イリコ」として珍重されています。


商工業
【工業の現状】
 佐伯市は、豊かな自然を背景に戦前にはセメント、戦後には海軍跡地への造船、パルプ、合板などの企業誘致を進め、早くから臨海型の工業群を形成してきました。現在は、造船、水産加工業など豊かな海に関連した産業が栄える一方、業務用冷蔵庫、医療機器の製造分野で全国的に高いシェアをもつ内陸型の企業も立地しており、市全体の製造品出荷額は900億円前後で推移しています。

 特に医療機器分野について、大分県から宮崎県をまたぐ東九州地域には、日本を代表する血液・血管に関連する企業が多く立地し、佐伯市は、その地理的な中心地に位置します。今後は、平成27年に完成した佐伯港14m岸壁と東九州自動車道との相乗効果による企業誘致を進めています。

                     
【商業の現状】
佐伯インターチェンジ周辺などの郊外に大規模店舗が相次ぎ出店する一方で、中心部の商店街は廃業、休業、規模縮小による閉店が目立つようになりました。また、市全体の商品販売額は減少傾向にあり、周辺地域における過疎化が進んでいることから、地域小売業に与える影響が懸念されています。近年ではこれらに加え、大分市を中心とした近隣都市の大型商業施設の開設よる購買力の流出の不安など、地域商業者の置かれた状況は厳しく、現在その対策に取り組んでいます。




食のまち
 生鮮魚介類を素材とした食のまちとして、売り出し中です。特に寿司は「世界一・佐伯寿司」と銘打ち、寿司組合が力を入れています。また、市中心部の「うまいもん通り」には各種飲食店がひしめき、佐伯の味を堪能できます。市内には道の駅が3、里の駅が4あり、山海の幸や郷土料理などを食べることができ、特産品販売コーナーも充実しています。新鮮な野菜を始め農林水産物の加工品など、この地域のものを網羅しています。ししラーメン(道の駅宇目)や死海の湯(イスラエルの死海を再現した浴場、道の駅やよい)といったものもあります。近年は、宮崎県の県北地域とタイアップし、イセエビなど海の食材をテーマにした食観光のルートの立ち上げや佐伯市に古くから伝わる郷土料理「佐伯ごまだし」を目玉とした観光客誘致に取り組む活動も始まりました。

佐伯人の気質と有名人
 旧市町村史に、「派手、人情豊かで人がよく親切、明るく陽気であっさりしているが、粘り強さがなく根性にかける」という記述があります。しかし、これは佐伯人をひとくくりにしたときの見方であり、そこは人間、十人十色、多士済々の人物を輩出しています。
(有名人)
 阿南準郎・・・・・・・・広島東洋カープ元監督
 野村謙二郎・・・・・・広島東洋カープ元監督、名球会会員
 川崎憲次郎・・・・・・プロ野球解説者、元プロ野球選手、ヤクルト-中日
 国木田独歩・・・・・・矢野龍渓の紹介で鶴谷学館教師として来佐。一年足らずの滞在でしたが、処女作『源叔父』や『春の鳥』『鹿狩』
              は佐伯が舞台。代表作に『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』
 富永一朗・・・・・・・・マンガ家、代表作はチンコロ姉ちゃんシリーズ
 
 御手洗冨士夫・・・・キヤノン株式会社代表取締役会長兼社長、経団連名誉会長、 2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会
              名誉会長
 村上勇・・・・・・・・・・故人、政治家、元建設・郵政大臣
 矢野龍渓・・・・・・・・明治のジャーナリスト、政治小説『経国美談』は明治のベストセラー
 嘉風雅継・・・・・・・・大相撲幕内力士

 伊達治一郎・・・・・・モントリオール五輪レスリング(フリー74kg級)金メダリスト
 
 小野正嗣
・・・・・・・・作家、『九年前の祈り』で第152回芥川賞を受賞。

トピックス
 佐伯市に残る言い伝えや物語などの中から、特徴的なものを拾ってみました。

「佐伯の殿様、浦でもつ」
 江戸の時代が始まる直前の慶長6年、日田地方を領地としていた毛利高政公が佐伯2万石の藩主としてやってきました。佐伯藩領の漁村は、農民も少なく、田畑も荒れていたので、開墾が奨励されていましたが、高政公は山焼きをしてはいけないと、特別に制限するお触書を出しました。そのわけは、佐伯藩は浦々の漁などで支えられていたため、山焼きで樹木の影が海にうつらなくなると、いわしが海岸に寄りつかなくなり、漁が細る心配があったからです。「魚つき林」といって、漁業が大事にされていたあかしです。

「豊後土工(どっこ)を生んだ上浦」
 農地が少なく、漁業以外に大きな収入源のなかった上浦の人々は、土木工事などの出稼ぎで生計を補っていました。トンネル工事の技術を身につけ、親方として現場を仕切り、後輩も育成し、日豊本線の開通した大正の頃には、全国の工事現場で「豊後土工」は頼りにされるようになります。危険を伴うこの仕事は、抗夫の団結が必要とされ、血縁や地縁による結びつきの強かった上浦の風土が生んだと言え、今も多くの人が全国各地で活躍しています。

「すみつけ祭」
 木浦鉱山が繁栄を極めたころ、この「すみつけ祭」が始まりました。歴史は、慶長時代にさかのぼるといわれています。この祭の特徴は「ひとつ祝わせちょくれ」と言いながら、誰かれ構わず顔にすみを塗りつけるところにあります。「昔、木浦鉱山で落盤事故があったとき、一人だけ助かった女性の顔がすみで真っ黒だったことから、常に危険と隣り合わせの鉱山で、安全を祈ってすみを顔に塗りつけるようになった」とか「銀鉱石がすみのように黒いことから、銀が多く産出されることを願って始まった」など、さまざまな言い伝えが残されています。この祭りに似たものは全国に数カ所しかないそうですが、いずれも一様に古い歴史を有する銀山だということです。今は、隔年の2月に開催されています。

「宇目の唄げんか」
 宇目の唄げんかは、鉱山がまだ賑わっていたころ、子守奉公に出された女児たちが歌った唄だとされています。なかなか泣きやまない子どもを幼い身体で負いながら、奉公のつらさを紛らわせようと子守唄を歌ったのが始まりといわれ、ユーモラスな歌詞の中にも哀愁を帯びた唄は、聴く人の心を捉えて離しません。今では大分県を代表する民謡として、全国にその名を知られています。

『「吉祥寺物語」かくされた黄金をとり出す』
 鶴見、沖松浦の吉祥寺の辺りは、昔は森のようで辺りにはお墓が立ち並ぶといった、寂しく怖い感じのする所でした。いつからか、夜になると「火の玉」「ぞうの首」(武士の像の首では、といわれています)が現れるという噂が流れ、昼でさえ近づく人はなくなりました。それからかなりたった頃、周防(今の山口県)から室積吉右衛門という商人が佐伯からの帰り、この松浦でも塩を売ろうと上陸しました。やがて夕方になり、塩を買ってくれた家の縁先で船のりたちと一緒に楽しく話をしながら食事をしました。家の人も話に加わりその中で火の玉の話をしたところ、「おもしろい。何物のしわざか、私が確かめてやる。」と吉右衛門さんが言い出しました。家の人は何度も止めましたが、吉右衛門さんは船のりたちを連れ、森へと行ってしまったのです。最初は少しも怖いと思わなかった吉右衛門さんも、森に近づくにつれ、気味が悪くなりましたが、男が一度行くと言った以上、後には引けません。勇気を出して森へ着くと「ぞうの首」たちがいきなり吉右衛門さんめがけて飛びかかってきました。その時、吉右衛門さんが「化物め、吉右衛門が生け捕りにしてやる!」と叫ぶと、あまりの声の勇ましさに「ぞうの首」たちはたちまち消えてしまいました。 同時にドサッという、何かが落ちたような大きな音がしました。吉右衛門さんたちがその方へ行くと、森の中に祠があるのが見えました。草を分けて入ってみると、武士の着る鎧・兜を初め金・銀製の道具がキラキラと山積みになっています。吉右衛門さんたちは大喜びで宝物を舟に積んで帰りました。吉右衛門さんはこんな幸運をつかめたせめてものお礼として、吉祥寺の境内に、残っていた塩をしきつめました。この上を土で覆いましたが、以来吉祥寺の境内には草一つ生えなくなりました。国へ帰ってからも吉右衛門さんは気が済まず、立派な石灯籠を2つ造り、周防から松浦の吉祥寺へ贈りました。今でも吉祥寺にはこの石灯籠が残っています。

「鮪浦の大蛇と漁師の話」
 鶴見の鮪浦に漁と商売の神・恵美須さんを祭っているお堂があります。この恵美須堂の下にある1mほどの幅と「きれのはな」という所の2つの道には、なぜか1本の草も生えていません。そのわけは、そこが胴のまわりが2m・長さが30mもある大蛇の通り道であり、その毒気にあてられたからといわれ、こんな話が残っています。見た人の話によると、この大蛇は海をかきわけて鮪浦へ泳いでくるといいます。漁をしている時にやって来るものだから、漁師たちは魚に逃げられてとても困っていましたが、何しろ大きい蛇だけにうかつには手を出せず、大蛇が通りすぎるのを怖さをこらえて待つほかはありませんでした。こうしてやって来た大蛇は鮪浦に上がり、「きれのはな」を通って恵美須堂の前まで来ます。あまり何度も大蛇が来るので、漁師たちはなぜ来るのだろう、何とかならないか、と話し合うのでした。 そのうち、不思議なことに気がつきました。大蛇はお堂の前にやって来て大きなとぐろを巻くのですが、しばらくすると30cmほどの小さな蛇になって、お堂のなかへスーッと入っていくのです。これに気がついた漁師たちは、そのわけをいろいろ考えました。そのうち、1人が「きっと大蛇は恵美須さんのお使いで、このお堂を粗末にすることがあったから恵美須さんは大蛇をつかってこのことを私たちに知らせているんだ。」と言うと、みんななるほど、と深くうなずきました。そして村の人々はみんな集まって、粗末にしたことを謝りながらたくさんお供えものをし、お祭りをしました。それからというもの、大蛇が鮪浦に現れることはなくなりましたが、今も草1本生えない道にその名残りをとどめています。

「醜女(しこめ)菊姫」
 今からおよそ200年前、佐伯藩の家老に、18になる菊姫という娘がいた。町なかを通る菊姫を見かけると、若侍たちは、「あれが、噂に聞く菊姫か。美しいのう」、「ああいう姫を嫁にしたいものじゃ」と、誰もが嫁に欲しがるほど美しい娘であった。家老夫婦も、「美しい菊姫に良い婿が早く見つかればよいが」と願っていた。ところがどうしたことか、あるとき、菊姫の美しい顔に吹き出物が出始めた。初めは一つだけだったのが、だんだんと黒く広がっていった。やがて右の頬は吹き出物でいっぱいになり、見るも痛ましい顔になってしまった。菊姫は部屋に閉じこもったきり、外に出ようともしなくなった。家老夫婦は、娘の美しさを取り戻そうと、あちこちの医者を訪ねて回ったが、さっぱり効き目はなかった。そのうち、菊姫はだんだんとやせ衰えていった。そんな日が続いたのち、菊姫の部屋から、お経を読む声が聞こえてくるようになった。ある朝のこと、一心にお経を読み上げている菊姫の目の前を、ひとすじの光がさっと横切ったかと思うと、重々しい声が響いた。「おまえの病気は、大日寺の弁財天にお祈りすれば治るであろう。」菊姫は、このお告げを信じた。さっそく大日寺に行くと、竹やぶに囲まれた境内は、人気もなく静まり返っていた。本堂の裏の弁財天を祀ってあるお堂に入ると、菊姫は一心に祈り始めた。「弁財天様、私を憐れと思し召して、どうか元どおりの顔にしてくださいませ」この日から、菊姫は21日間の願掛けに入った。雨の日も風の日も、菊姫は一心に祈り続けた。やがて、21日目の日がやってきた。菊姫は、朝からお告げに望みをかけて祈り続けた。昼が過ぎ、夜になった。うしみつどき(午前2時ごろ)になろうかという頃だ。一本のろうそくだけの薄暗いお堂に、目もくらむような強い光がきらめいた。と思うと、弁財天のうしろから、らんらんと目を輝やかした大蛇が、真っ赤な炎を吐きながら菊姫におどりかかってきた。「ああ、弁財天様、お助けくだされ」逃げる間もなく、菊姫はその場に気絶してしまった。
次の朝、お堂の中に倒れている菊姫を、家来たちが見つけた。不思議なことに、菊姫の顔からは、あの醜い吹き出物が跡かたもなく消えていた。家来たちは、大声で菊姫を揺り起こした。「姫様、あなたは元の美しいお顔におなりですぞ」この話が城中に伝わり、町じゅうに広がると、弁財天のご利益を受けて美しくなりたいと願う娘たちのお参りが、ひきも切らなかったという。この話にちなんで、毎年4月に行われる「さいき春まつり」では、「菊姫行列」という催しがなされ、地元の有志が開催する竹灯物語とあわせて、200年前にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるほどの美しい幻想的なイベントとなっている。


名勝
豊後二見ケ浦
 佐伯湾に浮かぶ高さ17mの雄岩と10mの雌岩の間に、長さ65メートル、直径75センチ、総重量2トンの巨大しめ縄を張っています。この大きさは、ギネスブックにも掲載されました。張り替えは、年1回、12月に行い、上浦地区の風物詩となっています。
霊峰尺間山
 弥生地区にある海抜645mの険しい山は、天正元年(1573年)に開山した修験道の霊場です。今は、法螺貝を手に籠もる修験者の姿は見られませんが、山頂の尺間神社の絵馬火焚きなどの儀式には、往事の雰囲気があります。頂上直下の400段の石段を登り切ると、佐伯湾の絶景が広がります。
小半鍾乳洞
 大正11年に指定された本匠地区にある国の天然記念物です。洞の延長は700m、無数の鍾乳石や石筍、石柱の創り出す幻想的な雰囲気には、目を見張るものがあります。
清流番匠川
 化石の宝庫佩楯山(はいたてやま)に源を発する、九州有数の清流です。流域の田畑はもとより、工業用水としても利用され、8万市民の喉を潤し、産するシロウオ、ウナギ、アユ、モクズガニは絶品です。
傾山
 祖母傾山国定公園の主峰の一つ、標高1,602mの急峻な山で、多くのクライマーがこの山を目指します。山裾は清流藤河内渓谷を潤す手付かずの原生林が息づいています。
かぶとむしの村
 佐伯市直川を通る国道10号線沿いにある「巨大なカブトムシモニュメント」がある場所を左に曲がり、4キロほど行った場所に「直川憩の森公園」「かぶとむしの村」があります。管理棟ぱぴよん(フランス語で“蝶々”の意)には、シーズン中はカブトムシとカブトムシ用品を販売しています。
かぶとむしの村では、子どもたちが、生きたかぶとむしを自然のくぬぎ林で自分の目で見つけ、自分の手で捕まえる場づくりとして、森林の造林を適宜行っています。
鶴御崎
 ♪豊後鶴御崎男の港♪と歌われた九州最東端の岬です。大島との間にある元ノ間海峡は、音戸ノ瀬戸や関門海峡を凌ぐほどの流れがあり、迫力満点です。岬には灯台があり、豊後水道を一望できます。
空の地蔵
 豊後水道を見下ろす山の尾根に、地蔵尊があります。江戸時代に難破した人の霊を弔うためにまつられたもので、今は海上安全、豊漁祈願、無病息災、合格祈願に利益があるといわれています。眺望絶佳のこの地はドライブコースとして親しまれています。
元猿、波当津の海岸
 元猿海岸はウミガメが産卵に来ることもある、日本の渚百選に指定された砂浜です。波当津海岸は日本の白砂青松百選に認定された遠浅の美しい海岸です。夏は、いずれも海水浴客でにぎわいます。

その他
参考・引用文献
 ・大分県農林水産統計年報
 ・旧市町村要覧
 ・観光マップなどから



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